「…妃」
「なぁに?」
「今日は帰る」
今は、彼の後を追わねばならない気がした。私はカウンターの上に代金を置いた。
「なあ」
立ち上がった私に、仁科は呼び掛けた。
「寂しくなったらいつでも来いよ」
そう言う仁科の声は、少し寂しそうだった。
急いで事務所に戻ったが、そこに亘の姿はなかった。行き違いか、それとも別の場所へ向かったのか。
(くそ…っ)
心の中でそう毒づきつつも、私は何故こんなにも焦っているのか、わからなかった。
あの目のせいか?今まであんな表情は何度も見てきた、その度に突き放して来たのに。何故彼だけが…?
「……」
私はソファーに倒れ込むようにしてもたれ掛かった。
「…馬鹿か、私は」
気にしてどうする。奴はヘテロだ。自分とは違う。この事で距離を置かれようとそれは単なる価値観の違いによるものですらない。奴も言っていたじゃないか、偏見はないと。ならば直ぐに戻って来る。一時的な戸惑いだ、きっと。
「あいつのことが気になるのも、きっとあの人に似てるからだ」
昔だ。昔、子供の頃、唯一純粋な恋をしたあの人。もう名前も、顔もうっすらとしか思い出せない、あの人に。
意外にもコロコロと移り変わる表情もその身に纏う雰囲気も全て似ている。何より頭を撫でてくれたあの色の白い手首が。
目を閉じて私はうなだれるようにして俯いた。最近の自分はどうかしている。
堪えられなくなりため息をついた、その時だった。
──…ダンダン!!
「!」
突如、事務所の扉が物凄い勢いでノックされたのだ。(いや、ノックではない。最早叩いている域だ。)
(一体何だ!?)
用があるのであればインターホンを鳴らせばいいものを。私は半ば怪しみつつも玄関に近付いて行った。
『おい!亘!いねぇのか!?』
「…?」
玄関に近付くと、聞き覚えの無い男の声が扉の向こうから響いた。
『くそっ…また寝てやがんのか?おい!さっさと開けねえとこのドアぶっ飛ばすぞ!!』
「!!!」
ぶっ飛ばすだと…!?私は慌てて鍵を開け、扉を開いた。
「ま、待て」
「……あん?」
扉の向こうにいたのはヤクザかと見紛うほどにやさぐれた中年男性だった。着崩されたスーツにボロボロになったベージュのコートを羽織っている。
「………誰だてめぇ」
嫌な予感がした。
不審な男はまるで不審者を見るかのような目付きでこちらを見ている。私の予感は大抵あたるのだ。特に悪い方は。
次の瞬間、胴体に強い衝撃が走った。
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